DeepLove個人的総括

まぁそのウンコ具合に散々気分を害したDeepLoveですが。
友達に読ませて恨まれて編集者であるダンナともコキオロシブチマケトークをして、要は身近な人から心ゆくまで「あれはダメだという共感」を得てそこそこ心が落ちつきました。
ので思ったことをまとめておく。


あの本でやっかいなのは、頭の貧弱な女子高生の「私の感動は本物!」という主張だろう。 感じる事は人それぞれ、という正論で地位を得た気になっている。


そこで『文章』『読書』を『食べ物』『食事』に例えて考えてみる。
よくある本の批評や比較は、「この料理が美味い」「いやこっちのが美味い」という論争。 または比較に意味がない「ラーメンが美味い」「いやカレーのが美味い」という不毛な論争になっている事もある。
例の女子高生達はそれと同じように「私はこれを美味しいと思ったの!」と言っているつもりなのだろう。
しかしDeepLoveは皿に盛られた泥ダンゴなのである。


ある程度の読書歴がある(つまり色々な食べ物を知っている)人達は、あれがマズイ以前の、食べるに値しない泥ダンゴであることがすぐに分かる。
しかし高校生になってなおロクに文章を読んでいない(つまりまともな食事をしたことがない)彼らは、初めて食べた泥ダンゴに感激して「こんな美味しいもの食べたことない!」と、顔を泥だらけにして主張して回っているのである。
料理(文章)を見慣れていないから、それが食べるものでないことすら分からないのだ。 みんなはもっといいものを食べていることを知らないのだ。
だから「この味が分からないなんて可哀相」「みんなも食べてみて!」と恐ろしいことを言い出す。
そんな先祖帰り死んでもゴメンだっつーの。


yoshiが主張しているような「真の愛」「純粋な心」というテーマを、まともに美味く料理している本は世間に掃いて捨てるほどある。泥ダンゴ以上の栄養価を、泥ダンゴ以上の味で提供している本だ。 普通の人間はそれを食べて心と頭を成長させる。
本屋に行けばいくらでもその料理があるのに、ひたすら足もとの泥ダンゴを「食べられる(自分でも読める)」というだけで感激してみせる彼ら。
あまりに何も食べてこなかった為に頭と心が栄養失調になっており、普通の料理を噛むアゴの力すらなくなっているのだ。
そりゃ泥でも腹に入れば感激だろう。


女子高生よ、これが君らの現状だ。
その感動は泥ダンゴがうまかったという感動なのだ。
いくら君らが貧弱とて、人間の姿をしながら泥ダンゴを喜んでほおばっている光景を見て「人それぞれだからね」などと言える訳がないではないか。